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「どんなに辛くてもやり続けていればトンネルは抜けられる」Scentee服部雄也、笑顔に隠された苦悩の日々

Q-SHOCKをご覧の皆さんこんにちは、タカタタンです。
「楽しく働く人を応援するメディア」というキャッチフレーズで進めてまいりましたQ-SHOCKの記事も皆様のお陰で199本目!「ラクな仕事だから楽しい!」ではなく、仕事や人生にどんなに壁があったとしても、道を切り開き、楽しく働いてきたという服部 雄也さんに話を聞いてきました。「仕事が辛い」という方にこそ読んでいただきたいインタビューです。

 

プロフィール

 

服部 雄也 (Yuya Hattori)

27歳。全校ドベ2、偏差値35の落ちこぼれ高校球児から、挫折と猛勉強の末に早稲田へ。2016年Sansan新卒入社。1年間のインサイドセールスを経て、フィールドセールスとして名古屋支店の立ち上げへ。正式に支店へと昇格させた後、2017年12月に表参道本社へ帰還。その後はSMB領域のトップセールスとして、月間24社受注のギネスを記録。2018年12月からは5人目の創業メンバーとして香りIoTスタートアップのScenteeへ。セールス領域を主に担当し、プロダクト完成直後の無名な状態から月間100万円の売上も記録。会社の立ち上げに向け、4人の仲間と死線を潜る日々。

 

服部さんとScenteeとの出会い


— 早速ですが服部さんが今されている事業について教えてください。

Scentee(センティー)という会社で、香りとAI、IoTを掛け合わせて新しく市場を作ろうとチャレンジしています。スマホのアプリから香りのコントロールができるルームディフューザーをつくっています。一般的なルームディフューザーは、必要な時に必要なだけ使うという調整ができませんが、ScenteeはAIの技術を組み合わせて、使用履歴からお気に入りの香りを分析し、例えば寝る前の30分や朝起きる時間に合わせてお気に入りの香りを自動的を設定することができます。

アプリの使用履歴を分析し、利用者の傾向によって、レコメンドするというだけではなく、将来的にはセンサーをさらに高度化して、湿度や、空間自体の匂いといった空間の情報をインプットして、それに応じて香りの強さを最適化する、といったデータを活用した賢いディフューザーに育てていきたいと考えています。

 

世界初、AIを搭載したルームディフューザー「Scentee Machina」

–今、香りを軸にやってるスタートアップはほとんどありませんよね。服部さんは会社の中で何をされているんですか。

ビジネスサイド全般の担当をしています。社員は5人で、ビジネスサイドは2人でまわしてるので、セールスやカスタマーサポートもやるし、PRもやっています。
最近は特にビジネスサイドの中でも、新規開拓系のミッションを任されていて、今は直販でホテルやオフィスにアプローチしています。

このデバイス自体にマーケティング要素があって、エントランスにScenteeを一台置いてもらうだけで、話題になるんです。自然と口コミで広がっていく感じですね。なので、イケてる人が集まるイケてるオフィスに置いてもらってます。

–Scenteeとはどこで出会ったんですか?

Q-SHOCKにも出演されている高野秀敏さん(株式会社キープレイヤーズ代表取締役)がきっかけです。高野さんからTwitterで急にDMがきててお話したら、面白い方だなって思いました(笑)そこで話してダイレクトにこの会社紹介されて一発で決まった感じでした。

僕Sansanにいたんですけど辞める気はなくて。辞める理由が考えても考えてもなかったんです。でもこの会社に出会って気持ちが変わってしまいました。それくらい突き動かされました。

 

大学時代に出会ったチアとSansan

–Sansanで働く時の軸と、現職で働く軸、今までの軸、それぞれがどんな風に繋がっていったのか教えていただけますか?

大学から同じ軸で今も生きてると思うので、大学時代から話をさせてください。

僕は大学時代にSHOCKERSというチームで男子チアをやってたんです。全員男だけのチアのチームで。応援ではなくて競技専門のチアをやっていた。中国雑技団みたいな。そこで、ずーっと「日本一なるぞ!」ってやって、結果なれました。

世界までいけて、世界の舞台でやる機会があったんですね。その時に、世界からすると男だけのチアは常識とは正反対なんです。男だけのチアなんて馬鹿げてる!何考えてんだ!みたいなマイナスな反発が最初すごく多かったんです。

でも、そんな逆風の中でも、実際に必死にパフォーマンスをして、自分たちのチアを伝えて、最終的にはものすごい歓声になって、ガラッと会場の空気変わって、一気にファンになってもらって。すげーなお前ら!といっていただけました。
あの世界の舞台で見た景色がずっと脳裏に焼き付いてて、今でも追ってます。

SHOCKERSはアメリカで開催された世界大会で優勝!

–成功体験のレベルがすごいですね。(笑)

早稲田の反骨精神じゃないですけど、その瞬間は笑われるかもしれないようなことも、突き抜ければ世界を驚かせることできると思いました。そしたら自然とSansanに目がいきました。4年前の日本企業で、すでに勝っているところではなくて、これから勝負していくとこで、世界に挑める可能性あったところってSansanだったんです。メルカリもそうだと思ったんですけど、ただ自分はCよりB向けのほうが合ってるなって思いました。


–チアというCを喜ばせる経験を持った中で、Bを相手にしている企業を選んだのはどうしてでしょうか。

僕は最初スタートアップに対してマイナスなイメージしか抱いてなかったんです。キラキラしてる感じとかについていけなくて苦手でした。

決め手は社長の寺田さんですね。寺田さん率いるSansanは、すっごい真面目で真っ直ぐで、みんなスタートアップらしくない。地に足着けて一歩一歩、やるべきことを愚直にやっている。こんなに地道に進んでる堅実なベンチャーもあるんだと思い、Sansanに興味を持ちました。
寺田さんに会ってベンチャーの概念が変わったんです。

 

やり続けていればトンネルは抜けられる

 

 

–きらびやかな表の顔の裏に、地道な活動があるのですね。Sansanでの経験についてもう少し聞かせていただけますか。

Sansanで印象的だったのは、本気で世界を変える新たな価値を生み出そうとしているところでした。誰かが起こした風に乗るんじゃなくて、自ら新しい風をおこしていくんだという信念に、特に惹かれました。チアの時に培った思想と全く同じだったのです。

実際にジョインしてからは、Sansanではセールス畑一直線みたいな感じです。
最初の一年はインサイドセールス。そこから最初の転機がきます。社会人になってから挫折を全くしてなかったんですけど、一年経ってフィールドセールスになった最初の半年がものすごい苦しかった時期でした。いきなり名古屋の支店の立ち上げに行きました。

愛知ってめちゃくちゃ営業が難しいんです。トヨタのお膝元である愛知において、昔からの製造業の人たちはそんなに名刺交換もしない。かつ文化的にも、いきなり外からベンチャーがきてもなかなか入り込めないんですよね。そこで苦しみに苦しみ、本当に全く売れず、「何なんだ営業は」っていう気持ちになりました。

 

–その時は何を思って耐えてたんですか?

「やり続けていれば、どこかでトンネルを抜けられるだろう」と思っていました。きっかけとなる体験を高校と大学で経験していたからです。

まず高校では野球をやってて甲子園目指してました。でも高2の冬に大怪我して、野球できなくなっちゃって、夢を諦めざるを得なくなりました。それが人生初めての大きな挫折。もう生きる意味がないぐらい一回折れちゃって。丸々自分の中の大切なものが全部消えた感じでした。

自暴自棄にもなったし自己嫌悪もすごくて全く何もできなくなっちゃって。人生詰んだなって思っていました。

でもふと寄った本屋の棚にオレンジ色の派手な表紙の大学図鑑っていう本があって。そこで最初に開いたページがたまたま“早稲田”だったんです。

書かれていた言葉も覚えてて。「日本一自由な校風で、自分らしさが尊重されてみんなが何かに夢中になっている。それは学問や部活だけじゃなく、たとえ麻雀や恋愛だったとしても、誰もそれを笑わない大学だ」って書かれてたんです。その時の自分はすごい胸を打たれて、ここなら変われるかもしれない、でも環境を変えるには努力するしかないなと気づき勉強を頑張れたんです。

服部さんの心に火をつけた早稲田大学


–まさしく運命の出会いですね。早稲田すごい!笑

早稲田が生きる希望になって、もう一度火が付いた感じです。どん底の状態からがむしゃらにやって、浪人生活を経て無事合格しました。
全く人と話せずに一年間浪人し続けた結果、コミュニケーションの取り方を忘れてしまい、ロボットみたいになっちゃったんです。大げさでなく人間を捨てるほど狂気的に勉強した代償でした。でも、そこからもう一度這い上がるきっかけをくれたのがSHOCKERS(チア)でした。

ただ入部してからの半年は、チアに取り組みつつも、どうしても野球の影を追っていて本気になれなかった自分がいました。でもそれが変わったきっかけがあったんです。

50人くらいメンバーがいて、最初はドベだったんです。全然できなくて50人中最下位たいな。それでも先輩は抜擢してくれて、一年生の時の最初の早稲田祭で、実力に合わず人を男を一人で持ち上げる大役を任せてもらいました。しかもあげるのは引退する最上級生、卒業する先輩。信じて任せてくれたんです。

でもそこで派手に大失敗。先輩を落としちゃって、、。その光景が忘れられません。引退の先輩を、こんな甘い気持ちで自分はやってたのかと。落として初めてハッと向き合わされて。そこで何かが変わった感じが明確にありました。その日に100回その技を決めるまで絶対帰らないと言って、腕が上がらなくなるまで付き合ってもらって、悔しくて泣きながらやりました。

そこで過去の野球の怨念というか影を断ち切り、自分はチアで、もう一回野球の時に成し遂げられなかった、日本一を目指すんだって決心しました。

そこから鬼のように練習して鬼のように鍛えて、結果そのポジションでは歴代トップの選手にまでなれました。最後の早稲田祭では一年生の頃に失敗した技を決め、さらに大技も決めて、弱かった自分を乗り越えられました。

SHOCKERS一色の大学生活は、最高の形で幕を下ろした

早稲田とチア、それらの大きな成功体験を通して、「やり続けていれば、どこかでトンネルを抜けられるだろう」という自信を持ちました。

 

高校時代に受けたいじめと閉塞感

–大きな挫折を味わい、挫折から立ち上がり飛躍するということを繰り返されていますね

人生を振り返ると、本当に変われるのはそういう瞬間かなと思いました。悔しかった、苦しかった、悲しかった、そういった感情で結構動いていたんです。

新米営業だった名古屋の時もそのサインに気付いて、これは復活のタイミングなんだと腹を決めました。どれだけ時間かかるかわからないけど、耐え続ければ必ずどこかでまた這い上がれるなっていう信念みたいな太いものが自分の中にあって、折れずに踏ん張り続けられました。

そのフィールドが地元だったっていうのも大きかったかもしれないです。

–地元にどんな思いがあったんですか?

高校生の頃、野球とは別にもう一個苦しかった経験があって、それがいじめでした。

もともと結構目立ちたがりで自己主張をしっかりするタイプだったんです。明るくて元気な感じ。けど、高校は愛知の中でも田舎な方で、個性を出すと叩かれちゃうんですよね。

それが自分の中ではすごい衝撃でした。自分らしくいちゃダメなんだ、個性を出しちゃダメなんだ、じゃあチャレンジすることもダメなんだ、って思考が全部そっちに向いちゃった時があって。村八分にあっているような感覚が、野球での挫折とダブルで襲いかかってきた感じです。初めてそこで死と向き合いました。生きる意味がわからないなと本気で思ってしまったんです。

ただ、強い自己否定に陥りながらも、自分らしく生きるってそんなにダメなのか?という思いがまだかすかに残っていた時、先ほど話をした早稲田の本に出会えました。幸運にも早稲田では夢中になれるチアとかけがえのない大切な仲間たちにも出会え、少しずつ人間としてのリハビリが始まっていった感じでした。

そんな原体験があったので、名古屋の話に戻すと、実はすごい地元が大嫌いだったんですけど、「抑圧されている雰囲気を変えていくのはきっと自分みたいなやつかもしれない」という責任感みたいなものが湧いて来たんです。

 

Sansanで閉鎖的な地元を変えようと、もがいた日々

–抑圧されてたところから早稲田にいって、自由な世界が実際にあるんだっていうことを確認して、Sansanに入って、また閉塞的な場所にきたというストーリーですね

はい。地元を変えるのにSansanってすごく良くて。組織自体を変えていくポテンシャルもあのサービスにはあって。名刺の情報が共有されると社内のコミュニケーションも活性化されるんです。如実に表れる企業もあって。まさに自分が苦しかった閉鎖的な感じから、カルチャーがオープンになっていく感じ、それがすごく私にはやりがいがありました。

 

Sansan名古屋支店の卒業式

–Sansanを導入する企業はどんな風に明るくなっていくんですか?

全社員の名刺が見れるようになるんですよ。そうすると新しいニュースがどんどん来て、○○さんと△△さんが繋がりましたとか、○○さんと繋がってる××さんが昇進しましたみたいに、自然とコミュニケーションが生まれていくんですよね。

人脈って、今までは自分だけで囲うものだったんですけど、それをオープンにすることでカルチャーもちょっとずつフラットに変わっていったりするんです。

最初は全然売れなかったんですけど、踏ん張りながら半年間名古屋でやりきり、なんとか正式な支店にもなれたので、一度東京に戻りました。それがSansanの前半、約一年半。Sansanの時代は後半で爆発しました。
東京に戻っていきなり最初の三か月、売れに売れました。名古屋の半年間は本当に苦しかったですが、折れずに丹念し続けてようやく芽が出たのかなと思っています。私が担当している領域だとトップセールスまでいきました。
そこで一個山を登っちゃったかなという感じが出てきてしまって。

自分の命を何に使うのか?服部さんが出した結論とは

–そこで転職を意識し始められたと

居心地がすごく良くなっちゃって。非の打ち所がないほど本当にいい会社だったのですが、あの名古屋の時ほどのヒリヒリする感じが懐かしくなっちゃって。入社した頃はまだ250人だった組織も、2年半いて500人になっていました。
自然にちょっとずつ意識が外に向き始めたタイミングでした。

誰にも言っていないですが、たまにふと、パニックになるぐらい強烈な死の恐怖が襲ってくる時があるんです。すると自然と「残された命をどこに使うか」と考える思考になってきて、Sansanでのそういったタイミングとも偶然重なった結果、次は生まれたばかりのスタートアップに行こう、って直感的に思ったんです。

そして今の会社に出会って、500人の内の一人としてやるよりも5人の中の一人としてやった方がインパクトも大きいし、日本と世間に与えるインパクトももちろん出るなとその時は思ったので、この会社の創業メンバーの一人としてジョインすることを決めました。

 

–Scenteeに入ろうと思った時の決断の軸を教えていただけますか?

自分の思いのベースの軸と、Scenteeの軸とがありました。

先にScenteeの方から話すと、一人で1からプロダクトもアプリもつくって香りの研究もしてっていうメンバーがいて、その人と初めて会った時、プロダクトを語る眼にすごい愛情が溢れていて、これが本当のもの作りかと、、、心が震えたんです。自分たちで新しい価値を生み出そうとチャレンジする人たちが純粋にかっこよかった。

自分の軸でいうと、大学時代チアをやっていた時から持っていた「世界を驚かせたい」という強い思いがありました。どうしたら世界に日本の名もない企業がインパクトを残せるのかと常々考えていました。
実は嗅覚ってものすごいブルーオーシャンで、勝者が世界でもいない状態。逆に言えば自分らの頑張り次第で、世界をアッと言わせられる可能性がまだあるんじゃないかと感じました。そこにものすごいロマンを感じたんです。

 

–先ほどおっしゃっていた、風に乗るんじゃなくて風を起こすという考え方と同じですね。市場を自分たちでつくっていく。意地悪な質問をすると、Sansanでもっと波を起こそうとは思わなかったんですか?

おっしゃる通りですよね(笑)。ただ、言葉を選ばずに言うと、Sansanは自分がいなかったとしても、もう世界にインパクトを与えられるぐらいの状態になってました。寺田親弘をリスペクトしているからこそ、今度は自分が同じように風を起こしていくことに命を使いたい!と。

 

–命をいつ使うか・・・。アツい考え方ですね。服部さんが、普段生活している中で、すごい命使ってると感じるのはどういう瞬間ですか?

今までの話なんだったのかと思っちゃうかもしれないんですけど、答えがあって、僕の場合は“妻”といる時です。

何だかんだ死ぬ時に人が後悔するのって、多分仕事じゃないと思うんですよ。死ぬときに出てくるのって愛しかないと思ってて。すると一番大事にしなきゃいけないのは隣にいるパートナーだよなって、めちゃくちゃ考えています。

今こうやって自分がチャレンジできてるのってそのパートナーの影響が大きくて。Sansanを辞めて5人のベンチャーに行くって相談した時、「何かあったら私が何とかするから行ってこい」って迷わず背中を押してくれたんです。ここで男見せなくてどうすんだ、と思ってプロポーズしました。

ここまで自分の人生を肯定してくれて、これからの自分に賭けてくれてる責任の重大さ。逆の立場だったらできないかもしれません。だからこそ頑張んなきゃな、という気持ちで日々チャレンジしています。

結局大事なのは、、愛!

by
早稲田大学大学院卒の27歳。 Tokyo XR Startups、レオス・キャピタルワークスにおけるインターンを経て、早稲田起業家養成講座に触発されDARSと共にQ-SHOCKを開始。現在は、for Startups, Inc.でヒューマンキャピタリストとしても活躍中。趣味は読書とカフェ巡り。ビールが大好き。
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